やさしい ビジネスショート講座

2分で読める!読みきりサイズのワンポイントビジネス講座。新入社員から管理者まで、役立つ実践スキルを紹介します。

会社とは何か?「システム、ルールの思惑」を理解する

 

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春は社内においても、新旧人の出入りや、異動があります。それによって、今まで自らが属するフレームから未知のフレームへと身を置くことになります。一番顕著な変化を持って新たなフレームに身を置くことになるのは恐らく新入社員でしょうか。学生という比較的フリーな立場から、社会人という一定の規範下に置かれた全く異なるカテゴリーに属すことになります。そのことにより、様々な学生生活にはなかった様々な事象に直面しますが、一つ一つを自己責任をもって、会社人としてのルールの中で対処することが求められます。これに対し企業としても、新入社員研修や職場実習などを通じて、必要最低限のことは教えますが、後は自学習を積み上げて企業人としての見識を得てゆくことが基本です。

実は、これは新入社員に限ったことではなく、中堅どころや管理職の立場に有って、その立場に違いはあるにせよ、「システムやルールの思惑」を理解できているということは仕事上、その基本的な重要さは同じとされています。

 

ご存知のとおり、企業はある種の意図をもった巨大なシステムのなかで日々の企業活動が営まれています。また、企業やその存する環境を包み込んでいる社会そのものが、巨大なシステムであり、かつ、それらが有機的に結合しネットワークになり膨大な社会システムが運営されています。

私達は、その好むと好まざるに拘らず、そのネットワークの中に組み込まれて生きていことになります。当然、その意図するところを踏まえての行動、活動が求められます。それを早く理解し、「このシステムあるいはルールは何が狙いか?」何が目的でこのシステムやルールが有るかを理解することが先決です。

つまりこれが、今日のテーマの「システム、ルールの思惑を理解」ことになります。これを、履き違えると、「どうもこういうやり方はおかしいと思う」等ということが先に立って、なかなか会社のシステムやルールに馴染めなかったり、場合によっては無視する、軽んじることに繋る恐れがあります。

 

”自分ワールド”で考える人は組織人としては向きません。というよりも、社会生活そのものを送ることが困難になったり、日々の支障きたすことは必至でしょう。個人の好き嫌いで企業や社会のシステムが運営されているわけではないことはよく分かっているつもりでも、新人は勿論のこと上級者になっても陥りやすい罠と言って良いでしょう。

 

よく聞く若者のコトバに「自分に合った好きな仕事、やりたいことに未だ巡り合わないら・・・」というのがありますが、「好きな仕事」と一口に言っても、これだと決める判断基準は那辺に有るのか甚だ疑問になります。これでは、砂浜で落としたコンタクトレンズを拾うが如く難しいことではないでしょうか。やろうとする仕事の見てくれや、得て不得手からくる先入観などに惑わされるがあまり、仕事の本質や、いわゆるシステム等の思惑を勉強しないままでは、自分にあう、合わないを決めるのは早計です。

 

システムの思惑を理解できれば、なるほどと思うことは多いはずです。社内のルールをよく知ることは「そうか、だからこのルールがあるのか!」と思えれば、ルールは自分を縛ることだけではなく、仕事の本質を理解でき、重大ミスの防止等につなるなど自らを助けることになるのです。

企業のみならず社会のシステムも、その「思惑」をよく知るべきです。

知っていれば「得」をするようなこと、知らないでいて、逆に思わぬ「ペナルティ」を意に反して払う羽目になってしまうことも多々ありますから気を付けなくてはなりません。

これらは面倒臭がらず自己責任で勉強しておかないと知らなかったでは済まされない自分にとっては「重大な事件」になってしまうことすらあります。個人的なことだけにとどまらず、例えば世の中にには、「補助金」や「還付金制度」などがありますが、このシステムの思惑を知っている人と知らない人では雲泥の差以上でしょう。職業生活に馴れ、社会人としての生活を営むとは、これら、あまたある「システムやルールの思惑」を一早く習得することと同義語ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

会社とは何か?「コンプライアンスの真髄」

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社内訓話などで聞かれる言葉の一つに「コンプライアンス」というコトバがあります。意味は言わずと知れた”法令遵守”となりますが、どちらかと言うと何かよくないことが起こった時に、「ガバナンス」の問題を含め、この「コンプライアンス」はどうであったか、などと問われたりします。

企業が不祥事の釈明会見を開く時、社長さんが「コンプライアンスには日頃より社内で徹底しておりましたが、この度は誠に・・・・」となります。

こう言った使い方や経営層の考え方に、しばしの違和感を覚えます。

と言いますのは、コンプライアンスは「法令遵守」と一般的に訳されていますが、間違いでは無いにしても、この訳意は適切かという疑問があります。コンプライアンスを企業が「国等の定める法令、法規類に違反しないこと」であると直線的に捉えていた場合「本当にそれで良かった?」」と言いたくなります。

企業は法律の上では、人と同じように住所もあるし、社会的な権利も義務もあるわけで、時として「法人」と呼称されるのはそう云った意味からも頷けます。

善良なる一般市民は「私は日頃より法律を守るようにしています」と、ことさら言ったとしたら、それを聞いた人は、なんか変に感じないでしょうか?何故かと言うと、それは、当たり前のことだからだと思います。

企業とて同じです。企業が「虚業」ではなく、本当の意味で「実業」であれば、社会の要請に基づいて存在している訳ですから、「一企業市民」として法を犯すことは有り得ないと見られます。

また、「法に触れなければ何をやってもよいか」と、厳しい世論の目が注がれます。

一頃、御社のコンプライアンスは?と問われると、我が社は、これこれにちゃんと法律類を『守っている』、『守らせている』でよかったと思いますが、現在の世の中の見方は、何回も触れますが、企業が「法律遵守」することは、守るべき最低限の”当たり前”のことであるという厳しい対応になって来てます。

しかし、目の当たりする様々な企業不祥事の中には、守るべきものも守らない、守れない企業もあることは事実であり、法令さえも遵守できない呆れた企業もあることも事実です。

これらは、論外としても、「法令」は絶対社会規範でもあり、この社会に存在するものを丸ごと律しています。つまり「他律的」なものと言えます。義務として従わなければならないものです。

しかしこれからは、企業は「自律的」に一歩高いところを目指し、自社の経営理念等から生まれた『倫理観、ルール・規範』などをコンプライアンスの中に、自社の意志としてどの様にどれ位織り込めるかが「鍵」になるでしょう。

それを全社で「守ること」それがコンプライアンスであると思います。

もっと言えば、「決めてあることは必ず守る」ことが「コンプライアンス」と言えなくはないでしょうか。

会社とは何か?「仕事の原動力」

 

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「終わりの見えない仕事」や「毎日、変化抑揚のないルーチン業務」に従事している時、まるで歩いても歩いても出口の見えない迷宮のトンネルの中にいるような気持ちに苛まれることがあります。

退社するまで続く毎日の「仕事」を人々はそれぞれどのような思いでこなし、また、どの様な原動力を持って対処しようとしているのか・・・・。

今日は、日々の仕事に対し、それぞれが持つであろう、その受け止め方や考え方の一端について、触れてみたいと思います。

企業研修で、「何のために働いていますか?」と云う問いに対する答えは、役職や階層別に答えは異なります。中級管理職クラスの答えは職業人としての成熟度を感じさせ、講師の期待?に応えようとするやや普遍的、模範的な回答も無くはありません。

一番正直な?回答が多く出るのが30~35歳くらいのこれから家庭を持つか、持って間もない中堅どころの社員の回答は現実的になります。「日々の糧を得る、ズバリ家族を養うため」や「将来のしかるべき自分の目的のため」などです。

これらは、素直で正直な答えで、勿論、間違っているとか言われるものではありませんし、これはこれで立派な答えであると思います。その殆どは、予想どおりの回答ですが、出来れば聞きたかったのは、自己の職業(仕事)を通して生み出している『価値』『役割』が社会や人々にどう貢献しているか等、いわゆるその人の職業観(仕事観)のようなものに関して言及して欲しかったと云う感想があります。

この辺の話、つまり職業観や仕事観の話と言うものを問うことは、ズバリ「精神論の範疇」になって、個人の内面の精神生活に触れることを意味しますので私は「研修題材」にはふさわしくないとは思っています。

しかし、入社当時を振り返れば、「新入社員研修」や幹部、上司訓話などでは、これからの「職業生活」に大事なその心構えの一つとして、仕事に対する使命感・やり甲斐など、職業意識を持つことの重要性と云うか、いわゆる「職業観(仕事観)」の大切さを教わることがあったと思います。

「自分や家族のために働く」と云うのも立派な目的ですが、自分の職業(仕事)が、先に述べたように、「社会や人々にどんな価値を提供し、役に立っているか?!」を自覚出来れば、自己目的をもっと大きく補完することができ、それはその人の仕事をする上での大きな原動力になる筈と考えれるからです。

私には、そのことを身をもって確信した出来事がありました。

ある大手の食品メーカの社員研修に際し、私は、研修の実施日以前に工場の夜間・深夜工程の作業を予め見学させて頂く機会がありました。

その日、そこで私が目の当たりにした食品工場における夜間・深夜作業というものは、想像していたよりもずっと大変な作業と分かりましたが、皆さんは、黙々と手際よくキビキビと働いていた姿は、今持って鮮明な記憶として残っています。

そして、その時、声掛をけした一人の従業員さんとのやり取りの中に、意外な言葉を聞くことが出来ました。彼が云うには「この作業では、朝と昼に、コンビニの店頭に並ぶお弁当を作っているところです。〇〇時には工場出荷しないと間に合いません。時間に縛られた気の抜けない作業ですが、この商品を待っているお客様がいらっしゃるいますから・・・・。」

部外者向けの言葉とは思いますが、私が尋ねたのは確か「ご苦労さまです。作業は大変でしょう・・・」と云ったような愚問だったと思いますが、特に、後段の方の「お客様云々・・・」は、全く予想していなかった答えで、失礼ながら驚いたことを覚えています。

監督者なら当然の受け応えと思いますが、一従業員さんからは、もっと現実的な話や異なるアッピールがあるのではないかと思っていましたが、私の予想は完全に外れていました。

恐らく、働く多くの人々は「手っ取り早く稼げるなら何でもいい」と云うことにはならない筈で、終わりの無い仕事の中にも、例え、ささやかであっても、そのやり甲斐や誇りに拠り所を置きつつ日々頑張っているのだ、という確証を得た感がありました。

「この仕事は、自分がやらなければならない」という「使命感」は自己の「仕事観」を補強し更には「自己の人生目的」を達成するための大きな「原動力」になりうるものなのだろうと・・です。

「職業観(仕事観)」「自己の人生目的」「仕事への使命感」等々はお互いに相互に関連して補完し合いながら各人の中に秘めて存在するものではないのかと、改めて推察する次第です。

会社とは何か?「PDCAを回すと云う謎」

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日頃上司から「もっとPDCAを回した仕事をやりなさい!」と言われた方も多いことでしょう。かっての私の上司もこのコトバを多用されていました。日常ビジネスの現場で聞くこの”コトバ”とは、一体どのような効力、効果をもたらすものなのか、いや、コンサルタントの先生方や一部の管理職を除いては、もはやビシネスの現場では、すでに死語や念仏に近いものになっているのではないかとの声すら聞こえてきそうな・・・そこで、今日はこの誰もが知っているこのコトバが知名度の割に著しい効能?を聞くことの少ないという、その謎めいた実態につて改めて考えてみたいと思います。

ビジネス本やコンサルタントの先生は、このPDCAにつては、外すことの出来ない定番メニューになっていると思いますが、PDCAを回すという”作業”を、実際、継続的に制度的に上手にやっている云う話は殆ど聞いた事がありません。大体、大号令で始まって、後は、部下まかせになってしまうことも多く、命じられた部下社員の皆さんは、PDCAを回すというその手順を守ることに四苦八苦して重い仕事になっている場合があります。

PDCAは当然「手段」であるべきですが、社員は、決められた手順・手続き、書式行為を守ることに埋没して、最悪の場合は、PDCAの手順を踏むことが「目的」になって、本来の目的は形骸化し雲散霧消してしまっているケースもあります。

このことは、以前関係していた企業(日本有数の大企業)のある大都市を統括する支店長さんが、PDCAを支店経営に導入した時のことを思い出します。支店長さんの「月次経理にPDCAを取り入れよう・・・・・!」の号令一下、プロジェクトを立ち上げて、PDCAを提唱推進する団体のコンサルタントを6ヶ月間常駐もさせて膨大な月次経理の事務処理体系を作り上げました。

私も実際に手にとって見てその関係帳票類の多いのには驚いたことを覚えています。一つのマターの動きは、数冊の帳票に関連して来ますから、その転記や関連性の維持管理に膨大な時間と労力がかかることが分かりました。

当該のコンさんタントさんは、月次のPDCA導入後も約1年定着化に向けて常駐されていましたが、そのために新設された事務局員や各部門の担当者には決して決して評判のよいものではなかったと記憶しています。

かくして、くだんの壮大な「PDCAシステム」は膨大なコスト・時間を掛けて、その後1年半位実行された後、提唱した支店長さんが転勤すると同時に消滅して「幻」と化してしまいました。

このことは、多くの教訓を与えた出来事であったと思います。”PDCAが役立たず”ということではなく、PDCAの表面的な機能のみならず”目的とする精神”をも取り入れることが出来たら、もう少しどうにかなったのではないかと思いました。

例えば、PDCAの「P」は計画と訳されていて、物事を「計画する」ことになっています。それは間違いでは無いのですが、計画という言葉一つで片付く、「ステップ1」ではない筈です。このPの段階で計画される中身はいわゆる「How to」がベースになくては、皆さんもご存知のように計画は単なる「絵に描いた餅」に過ぎません。

計画段階で「How to」まで書けと言っても無理と云う向きもありますが、そこは「仮説」でいいのです。計画段階は仮説力が物を言います。今手元にある例えわずかな根拠であっても、これを一つの仮説に構築してゆく力が必要です。それが読み手に納得とまで行かなくても、やってみる価値を認めさせるポイントになります。その仮説を月次で実行、検証して「リファイン」してゆくことがPDCAの精神ではないでしょうか。月次は経理主管だけでなく、社内各部署にも多くの事務的な負担がかかりますから、闇雲に書式行為が多くなることや月次報告の様式が複雑化することは避けるべきです。

関連して、多くのビジネス書には各種の経営分析のフォーマットが見られますが、これらを有効活用して仕事に活かすことは否定しませんが、フォーマットから得られた結果をストレートに適用して正解として”崇める”ことは禁物です。多くの分析フォーマットも、どこに問題があるかの「現状把握」をするもは使えるものも多くありありますが、答え(次の打ち手)まで教えれくれる様なモノはあまりお薦め出来ません。

打ち手は、地道に仮説→実行→検証→仮説(繰り返し)になります。例え著名なフォ-マットであっても、これで万全とばかりに、「打ち手」を丸投げにして頼るのは推奨しません。と言うよりか、経営や、ビジネスにおいては「次の打ち手」が既成品の分析フォーマット一つで決められるほど「甘い世界」でないということを多くの実例で物語っていることも事実と思います。

但し、その考え方や思考の切り口としては、「フォーマットの精神」は大いに勉強になると云うことは言うまでもありません。

会社とは何か?「社内コミュニケーションの目的(2)」

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前回は、社内コミュニケーションの機能、役割などにいつて、つまり”社内コミ”は、単なる意思疎通や相互理解のためだけではなく、そのコミュニケーションで何かをやり遂げるという『目的』を持っているという「切り口」で考えてみました。うまくクロージング出来たあなたのその「仕事」も言葉を変えれば、その成功のもとは、コミュニケーションの成功と言っても過言ではない無い筈です。

今日は、”相手の話をまず”傾聴する”と云う様な皆様よくご存知のことには触れませんが、コミュニケーションが成立して、目的を達成するためには、いかにして自分の〈考えや思い〉を伝えるかという点についてお話してみたいと思います。まず、コミュニケーションの手段はコトバ、紙ベース、PC経由等々色々ありますがここでは、スペースの関係上、主として口頭に限ってお話します。手段が口頭であれば、意思の媒体はコトバです。日本であれば特別の例を除いて、日本語が使われる訳ですが、これが意外と問題なのです。一般的に赤ん坊は、1歳半位から母親にしか分からないような片言から話し始めて、遅くても3歳半くらいまでには話せるようになりますから、日本国であれば全員が日本語で通じると思うのが人情です。私も今から十数年まえの講演セミナーで人前で話し始めた頃は、こちらの思うことを伝えることは、こんなにも難しいいことなのかということを思い知りました。勿論、私の伝える力の脆弱さもあったと思いますが、何よりもコトバは思ったほどには相手には伝わらないということでした。

勿論、「話す力」があるように、失礼ながら「聞く力」もありましょうが、それ以前にことばの「解釈」が人それぞれで異なることが一つです。例えば、童謡で、”夕焼け小焼の赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か”というのがありますが、これは童謡ですが、これを会話として話した場合、この負われてみたのはの”負う”=”おんぶされて”と解釈すべきところを”追われる”=”追いかけられる”解釈してしまいますと、もう後はちんぷんかんぷんになります。まして、この場合、主語は”自分”なのですが、”赤とんぼ”としてしまったらもうめちゃくちゃの文意になって、この人何言っているか分からない!と言うことになります。これは「この夕焼け小焼けの空に舞う赤とんぼを(誰かに)おんぶされて見たっけな、あれはいつの日だろう?」というような解釈だったと私は思いますが・・・

実際に、つまり言いたいことは、コトバの力に頼り過ぎないことです。正しく伝わらないかも知れない。未だよく理解されていないかもしれない。で正解と思います。

専門の分野では、「意味の括りつけ」と云う人もいますが、極端な例で説明しますと、「りんご」を(ミカン)と覚えている人がいたらコミュニケーションは自分では成立したと思っても実際は相手は全く異なった意味合いで受け取ることもあるということになります。或る、歴史上の偉人が言っていますが、『コトバの意味は、話した側の言葉にあるのではなく、相手の頭の中にある』と、なんと含蓄のある名言でしょうか。

会社のチーム内のミーテイングで良く周知したつもりでも不徹底事項が出たり、お客様によく説明したにも拘らず確認の電話が入る等の現象は、”伝えたもり” ”伝わったつもり” がもたらす現象と言えます。相手は自分流の解釈をするかもしれないということを念頭に置きたいものです。それを防ぐには、コミュニケーションの原点である双方向(interactive)を常に意識したコミュニケーションを心掛けることをお奨めします。演説やラジオ放送のように一方通行のようなニュケーション手段は相手の「理解度を推し量る」ことが出ませんし、分かって貰いたいのでしょうがそれを「確認」することは困難です。ですから、時々、話しながら相手の頭のなかに有る解釈を確認することが重要です。「ここまでよろしいでしょうか?ここまででご不明な点は?」などと話します。また、「ここまでは、これこれこう云うことについてお話しました。要約しと・・・」云々と誘導して、相手の理解度を確認しつつ話を進めることが後々のトラブルの回避につながると思います。

以前、ある訪問先企業の総務部門での出来事です。担当者同士の会話内容が「LED照明がどうのこうのと」社内のLED球のことらしく、一人の方は、「LEDが点かない=点灯しない」、見てきたらしいもう一人の方は、あそこの照明器具も先日、蛍光灯からLED変えたばかりで、ちゃんと(LED器具は)付いている。」第三者の私だけが、咬み合わない二人の会話の意味合いが分かったところで、確かに「意味は相手の頭の中にある」と納得したのでした。

会社とは何か?「社内コミュニケーションの目的(1)」

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「コミュニケーション」の定義・解釈は一般論として、友人達との楽しい会話から会社の仕事上のものなど多岐に亘りますが、今日は「社内コミュケーション」についてその機能・役割・目的などについてお話します。

一般的にコミュニケーションは、「意思疎通や相互理解」を図ることを目的とすると云う解釈が多く見受けられます。「社内コミュニケーション」も、基本はその範疇に留まるものですが、組織においては、それだけでは不十分です。勿論、それで事足りることも往々にしてありますが、社内コミュニケーションでは、もう少し、推し進めた解釈が成り立ちます。

例えば、あなたが或るプロジェクトのリーダーであったとします。納期を3ヶ月後に控えて、計画の進捗が予定より大幅に遅れていることが判明しました。あなたは、早急にメンバーにそのことを説明し、その原因を探り、軌道修正を図るなどの対策を執らなくてはなりません。

その時、あなたが採る手段こそが「社内コミュニケーション」にほかなりません。あなたは、メンバーにプロジェクトの進捗状況等を自らのコトバで説明し、メンバーとの意思疎通や相互理解を通して、更に「共感と合意」にまで辿りつけなくてはなりません。

しかし、それで終わりではありません。あなたの最終目的は、プロジェクトの遅れの原因を明らかにし、対応策をもって、3ヶ月後の納期に間に合わせるということです。お分かりのように、一般的なコミュケーションとは異なり、社内コミュニケーションでは、相手(複数を含む)との「共感合意」を得た後に、大事な「目的」を達成させるという意味合いがあるのです。

関連して、少し横道に入りますが「仕事の 目的」は時々思い起こさないと、いつの間にか「迷宮」に入り込むことがあります。まさかとお思いでしょうが、ルーチン以外では、よくあることです。仕事が何事も無く順調に行っている時は、良いのですが、大きな仕事ほど、障害や壁にあたります。上司、顧客先、他部門からの色々な注文や指摘をもらい、しまいには混乱とパニックに陥り「自分は今どの辺にいるのか」、「何をしているのか」すら、分からなくなってしまうのです。「そういえば!」、と思い当たる方もいらっしゃるでしょう。

このような時も、恐らく「道迷ったら振り出しに(原点)戻る」ではないですが、当初の「目的」を確認できれば、そこから仕事の軌道修正は可能となる筈です。当たり前ですが、大きい仕事でなくても、仕事は目的を思い出せれば軌道を逸脱することはありません。

また、本論に話を戻しますが、「社内コミュニケーション」が必要であることは誰しも認めるところですが、その実あまり、その目的、重要性を認識されていないようにも思われます。例えば、プレゼン然り、「うまく話そう」とか、「スタイル」のことがむしろ気になって来たりします。キーワードは、『このコミュニケーションで自分は何を果たそうとしているか?』と自問することも一つです。

そして、社内コミュニケーションを介さずして、いかなる仕事も成就しないということを、そしてこの「社内コミュニケーションの持つ力」を改めて考えてみる意味はあると思います。

春先のことですが、ある新聞社の企業経営者の方々に対する「アンケート調査」の記事が目に止まりました。内容は、自社の新入社員に「期待・要求する能力」とは、という問いに対し、第一位の回答は、これまでの「協調性」、「忍耐力」などを抑えて、「コミュニケーション能力」が挙げられておりました。時代の変遷とともに、企業の期待する人間像も、変わって来ていると云うことを実感いたしました。

 

 

会社とは何か?「効率性と有効性」

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株式会社は、営利企業ですから利潤を追求します。最大限追求しますから、社長さんは、「全国支店長会議」などの席上では、さらなる売上アップに向け、各支店長さんに号令をかけます。売上目標の必達は当然のことで、目標の未達成は、許されません。そんな月の御前会議では、支店長さんは、顔を上げることすら出来ません。そして、よしそれならばと、支店に戻り、社員を叱咤激励して、ようやく目標をどうにか達成して翌月の御前会議に臨みます。そこで、おもむろに社長さんが云う言葉が大変重いのです。「加藤君のところは今月は、目標達成してくれてありがとう。しかし、達成率105%では寂しいね・・・・。」たった、5%しか目標をオーバーしていないと言わんばかりです。加藤支店長の言い分としては、「先月の未達分」の積み残しを加えての今月の目標達成ですから・・・と言いたいところだったのでしょうが、そこは、”こらえた”と思います。

一方、社長さんが、言いたかったのは、「先月の未達分」を含めて達成したにしても、そう高くない目標設定なのだから、もう少し伸ばせたのではないかと言っているのですが、そこで、考えなければならなのが、「効率性」と「有効性」です。

 普段、「効率性」については、頭が行く私たちも「有効性」と言うとコトバはわかっているつもりでもうまく言えず「???」になります。今一、ピンと来ません。

「効率性」は、インプットしたものよりアウトプットが大きいことです。つまり「インプット」<「アウトプット」です。有効性は一口に言ってムダがなく効き目があることです。例えば目標をどの程度達成したかと分析する場合に、その支店あるいはチームの「生産性」はいかにと問われますが、馴染みのある「効率性」にだけ目がゆきがちですが、戦略や販売施策がうまく作用しているか、つまりやっていることの「有効性」はどうだったか、と言うことにも着目する必要があるのです。つまり①「効率性」+②「有効性」=「生産性」になります。

ここでは、①②はプロセス、つまり実際の活動の仕方により差が出てくると言えます。社長さんが、言いたかったのは、加藤支店長の「支店の実力」なら105%程度の達成率で満足するのではなく「もう少し達成率を延ばすことが出来たのではなかったか」と指摘したことに他なりません。

「結果」にいくら手を加えても、「結果」は「結果」に過ぎません。結果を変えるには、ご承知のように「プロセス」にどう手を加えるかです。そして、この時に効率性だけでなく有効性にも着目して頂きたいと思います。

勿論、マンパワーについても、その「働き度」「働き方」などを効率性や有効性の観点からどうであったか、同じように考えて見なければならないことは言うまでもありません。