やさしい ビジネスショート講座

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会社とは何か?「指揮命令の落とし穴」

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山茶花の咲くベンチのある公園の風景」

 当たり前であるが、どの会社組織においても、 一定の「指揮命令系統」が存在しており、その中で人により日々の業務運営が行われています。ですが、いきなり「指揮命令系統って?」と問われると、分かっているつもりでも、にわかには答えられない気もします。

指揮命令系統を簡単にイメージするするには、一部例外を除き、「会社の組織図=指揮命令系統」と理解されてもよろしいかと思います。

組織図というのは、どこの企業にも社長さんをトップにして段階的に「あみだくじパターン」で下位職位まで記されている図表があると思いますが、あれです。あれをそのまま指揮命令系統とイメージするのが手っ取り早い方法です。

蛇足ですが、この組織図でトップから縦線でつながっているところがいわゆる「ライン組織」と言われ指揮命令系統の本流そのものになります。

もう一つ、ラインから、途中枝のように出ている組織もありますが、これをスタッフ組織と言い、社長室や企画室(部)などが該当しますが、指揮命令系統からは外れています。

つまり、社長さんなどのスタッフとしての機能を司ることに特化している組織です。

あとは、社内横断的なメンバーによるプロジェクトチーム等、上層部の「特命」により、与えられた一定の指揮命令権を持って業務を遂行する場合などは既存の指揮命令のルートから外れることは言うまでもありません。

 

普段は、この社長から担当者までの”縦のネットワーク”により業務命令や指示が出されます。ですから、下流からトップ方面に向かって命令や指示は発出されません。下から上へは、いわゆる、ほうれん草の類(報告、連絡、相談)となります。

ですから、例えば『社長から以下のとおり報告がありました。』という社内文章の書き方は間違いです。注)これは以前にも少し触れました。

次に、指揮命令の伝え方です。直属に部下に対しては、もちろん口頭でも良いわけですが、上層部に行けば行くほど各職場に赴くことは効率的ではありませんし、なにかと無理があります。

そこで、文書あるいは社内LANなどの通信ネットワークなども併用されていると思いますが、文書の利点もありますので、文書でと言うところもまだあるでしょう。

問題は、口頭から口頭などの場合は注意を要します。指示や命令の具体的内容が、いつも明確に残る形で自分に来るとは限りません。上位者からの指示命令は一言一句聞き漏らさず、あるいは書き留めて、それをまた自分だけでなく部下のいる場合はそれを正確に伝えなくてはなりません。

また、指示や命令を発出する人も十分な注意が必要です。大切な事ほど受命者(指示や命令を受ける人)の理解度を図りながら指示等を下し、正確に受け止めたかどうかを確認しながら伝えることが重要です。

当然ですが、受命者はメモを取るなど、あるいは不明点などは臆せずその場で確認することが必要です。

勝手な思い込みや、曖昧な妥協が後でとんでもないことに発展して多大な混乱や失態につながって、社内だけにとどまらない場合もあり得ます。

特に人間は自分の不得意な分野のことは、無意識に避けて聞いてしまう傾向にあると言われます。本来の趣旨に自分なりのバイヤスを掛け、いいように解釈してしまうことは実際には、よくあることです。

上司の指示や指摘事項の何点かの中に、「会社の数字」に関することがあったとします。自分が普段から数字に弱い、嫌いと思っていると、何故かその部分が「欠落」してしまうか、趣旨を正しく伝えられないことなども職場で発生している問題です。

例えば、出席した会議の模様を部下に伝えるときも、自分も興味があり得意分野の話は、時間を掛けて連綿と話すのですが、数字がもろに絡む「月次経理」の部分は、いとも簡潔に終わらせてしまう方が実際にいらっしゃいます。

お気付きのように、どのような指揮命令のネットワークに載せられた会社の”強い意志”も担当者まで正しく伝わらなくては意味をなしません。

指示や命令を出す人、受ける人、双方のそれぞれが、正確に心して授受行為をしなければならないと思います。

特に、指示や命令を出した方は、その時点で受命者の理解度を確認することは特に大事で、一通りのオーダーのあと質問を促したり、ポイントを逆質問をしてみるなどして、慎重を期すべきです。

一番いけないのは、上位職位者が指示や命令を出しっぱなしにしていて、ただじっと報告を待つと言うケースです。

重要マターほど社内でオーソライズして重点施策にした上で月次経理などで進捗状況をしっかりと管理するとか、あるいは個別に「特命PT」を立ち上げ、随時報告を求めるとかの方法があるはずです。

いきなり、間際になって、「あれはどうなっている!?」では組織もぎくしゃくするというものです。

つまり、指揮命令ネットワークのどの階層レベルにおいても、指揮命令のあとは、終わりではなく、常により一層のフォローアップが必要になります。

抽象的ですが、フォローアップは「双方向のコミュニケーション」と読み替えても良いと思います。

例えば、廊下で、すれ違った時に、「あれうまくいってるか?困っていることはないか?」と声がけすると言うのもありでしょう。これであっても立派にフォローの一つになるのではないかと思います。

余談ですが、先日テレビのワイドショーで行政のトップの方と部下職員の方とのやり取りの内容を録音したものが報道されました。トップの方は道路拡幅の案件について「7年前から何やっていた・・・云々」という叱責をされていました。

「立ち退きがうまくいっていない話」のようでしたが、トップの方は、それを初めて聞いたのか(それはあり得ないと思うが)、事あるごとにチェックを入れていたのかは分かりませんが、7年前からあった重要案件がこれまでの間どのような経過を経て今日に至ったのか、そして管理がなされていたのかが大いに気になりました。

組織あるところ、この永遠のテーマ「指揮命令」に関わる不変の原理原則を上司と部下双方とも、改めて心すべきことです。

 勿論、日常のルーテインや、すでにポストや担当に職務が割り当てられている場合は、毎日同じことを指示しなくても良いように上司の指示等はいちいちありませんね。 

最後に、会社の各部署の担当者まで、今やっているその仕事の権限は、もともとは社長さんのものだと言う考え方もあります。

社長さんがやり切れないので、専務さんに下ろして、専務さんがまた常務さんに下ろして部長さんへ下りて・・・担当者へとなったのです。

これが「指揮命令系統」の真髄だと思います。

また、これらは組織論的には「分掌」とか「委任」とか言われています。

 

 

会社とは何か?「学習のタイミングとは」

 

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                          水門のある川辺の風景

 この冬の大寒波の襲来には、雪国のみならず普段は雪のほとんど降らない地域にも大きな打撃を与えました。ここに来て、ようやく寒さも和らいだので、春の兆しを探しに川岸を散歩してみましたが、まだまだ空は重暗く、風も冷たくあたりを吹き抜けていました。

 

 よく、”人生死ぬまで学習”とか、”学窓を出てからが本当の勉強”とか言われています。しかし、社会人になって見ると、自由になる時間が学生時代と異なり制限されます。

毎日のルーティンに追われながら時間のない中で皆さんはどの様な機会、方法で学んでいらっしゃるのでしょうか?

今日は、時間のない日常の中で、ビジネスマンはどのようにして、学習することが効率的、効果的であるのかについて、わたしのおすすめする(実践している)方法等についてお話します。

 

 皆さんは、日頃何らかの自己研鑽をされていることと思います。また、会社では社内研修があり、昇任、昇格試験や管理職登用試験制度のある企業など、好むと好まざるにかかわらず、学習することを余儀なくされているのが実状と思います。

 

 勉強しなければと思っても、なかなか自由になる時間は取れないし、アフター5のお付き合い、家に帰れば家族との対話やテレビの誘惑もあり、とても机に向かって本を読んだり、PCを操作する時間などはありません。と云う多くの答えが返ってきます。

 私が今日お話したいのは、そういった勉強の仕方ではありません。

言うならば、”心がけ次第”で勉強はいくらでも時間を掛けなくとも出来るという方法です。

 先ず、学ぶための目標です。ただ単に、業務知識等を豊富にしたいからでもいいでしょう。しかし出来れば学んだその暁に見えて来るもの、つまり「何のために学ぶか」が大事です。大袈裟な言い方をすれば、学ぶことによって得ようとしている具体的な目標があるかどうかです。

あるいは、そんな大袈裟なものでなくても、「将来はこうなりたいな」程度の獏とした願望の様なものでもよいのですが、まず、それらを意識できるかがポイントです。

ただ単に、手当たり次第にあれもこれもと本の乱読のように勉強するようなことは、効率も悪くあまりおすすめできません。

 例えば、あなたは、管理職登用試験を上司から、間もなく受けるように言われていたり、あるいは、同期より早く主任や係長になりたいと思っていたとします。これが大切なことで、そう思っていることが、言わずもがな学習の”トリガー”であり”動機付け”になるのです。

 

 方法は極めて簡単です。自分の目標や描いている将来像は、今の自分の知識やスキルで、対応可能かと考えて、そして自分なりに判定してみることです。

どうかシビアにかつ単純に判定してみて下さい。そこがポイントです。

自分が、係長や課長になったとして、「今の知識・スキル等で務まるだろうか?」と考えて見ればその答えは、すぐに出てくるのではないでしょうか?

 出来れば、まだその時期でなくとも、この方法で効率的に準備も可能になります。例えば、あなたは、今あるポストから、今度は、支店長をも狙える様になっていたとします。その時に、支店長を今の自分が務めるとしたら、今の自分で対応できない点はどこかと多面的にざっと考えてみます。それは、厳密なものでなくとも(理由は後で記します)当面は自分が感じた点でもよいのです。

 本当に、一先ず最初は、今は”これとこれ”と云った漠としたもので良いのです。

 支店長になれば、セクションの管理職と違って大局的に組織を見なければなりませんし、自分の専門以外の部署もコントロ-ルして行かなければなりません。外部対応や、また、本社との間で、一番大事な収支や支店経営全般の責任を持たなければなりません。

  そう言った切り口で考えてみると、自分が支店長になった場合、例えば[財務諸表」の理解度はこれで良いのか。部下の企画部門がまとめた支店各部門からの年度計画の数値が支店長(自分)のところへ分厚い資料となって上がって来ますが、それを読み解き、コメントや再指示をし、本社・支社などの指示・方針と自支店の年度方針との整合性を図ってゆくなど、相当の知識やスキルの積み上げを要することになると思います。

少し、シビアに書きましたが、要は今の自分には、これと、これ・・etcは、完全に不足しているなと思えたら、思いつくものを「気に留め置く、あるいは書き出してみる」だけでいいのです。「たったのこれだけ」です。

 これをすぐに何らかの方法で学び始めるも”よし”ですが、最初は手掛かりもなくどこから取り組んでよいか初めは分からないと思います。

ですが、はじめは兎に角何でもいいから関心のあるもの、とっ掛かり易いものからでいいのです。

例えば、「財務諸表」のうち「損益計算書」をなんとか攻略しようと思ったら、それを心に留置きます。

 そうすると、皆さんはそのうちに不思議な現象に気が付くことになります。この損益計算書や大きく財務諸表のテーマに関することを見聞きするたびに自然に反応している自分がいることに気付かれるでしょう。

こうなれば、しめたもので、あとは、自分が知りたいこと、学びたいことを一つずつ学んでゆくだけでよいのです。

お気付きのようにこれではテーマに対して体系的でないとお思いの方がいらっしゃると思いますがこれで十分良い筈です。

ただし、重要なことは体系的ではなくても、ここでは『関連のあるものを学んでゆくという方法』をとります。

どう云うことかと言いますと、簡単なことで、一つ何かこれだと思う興味あるポイントを学んだとします。

そうしたら、それをそのテーマの「核」になるものにして(重要なものと言う意味でない)それをベースに次々に学んでゆくのです。

その核に次に関連して覚えたいことを見つけたとしたら、それを最初の核から派生したつぎの核というように次々に知りたいこと学びたいこと疑問に思えることを学び付け加えて行きます。

イメージとして言えば、「マインド・マップ思考発想法」の考案者(Tony Buzan氏)のマインドマップ図のように関連していることが、次々に整理され体系化、整理されてゆくことに似ています。

あるいは、ジグソーパズルもそうですが、最初は取っ掛かりもままならない、最初のワンピースから全体像を完成させるというそれにも似ています。

 

もちろんマインドマップ図やジグソーパズルとこれは、違いますが、言いたいことは、一つ学んだ核ができればそれをベースに関連したことを次々学んで行くことができる(自然と学んで行きたくなる)という方法です。

 

これは私も実際にこの方法をとっていますし、私の研修受講生にも奨めています。

この方法が良いのは、別に机に向かって「さあ、これから財務諸表を勉強するぞ」という場面ではなく、日常が勉強の舞台になります。

 会議や仕事上でも、この学びたいことが決まっていると、その関心のあっるテーマに自分が反応します。そして小さなことでも「あっ、それはそういうことだったのか!」と思わぬところに知りたいことの解答があったりする筈です。

それもまた当然核となり得ます。そうしてテーマに対し関心や興味さえ失わなければあなたは、次々に学んでゆくことが出来るのです。

人の脳はある程度バイアスがあって、自分の都合のいいように考えようとします。例えば、経理や数字が苦手の人は、社内文書の中の重要な数字を見落としたりしますし、自分の好きな分野や得意の分野の記述はよく覚えているものです。

このように人間は自分の都合のいいように脳で考えてしまうと云うのは心理学の中では定説のようですが、逆にこの「核をベースに学ぶ」と云う方法は、脳の変なバイヤスを取り払い自分の興味あること関心のあることに置き換えていますから、脳から学ぶタイミングを教えてもらうと云う点で理に叶っていると言えると思います。

若い頃、ある企業にいた時代に、上司から、「そのまま行って、例えば君は将来はトップマネージメントや大都市の支店長などになれるのか?!」と実際に投げかけられた一言が、この方法で学ぶきっかけとなりましたし、相当の成果があったことは間違いなかったと今でも思っております。

(閲覧いただきありがとうございます。本編は本年2月に起草したものですが筆者怠慢につき、アップが八月になったこと、冒頭文と写真は今の季節感とそぐわなくなっておりますがそのままにしております。ご容赦ください。)

 

 

会社とは何か?「コトバの力と無力さ」

 

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                             街中にある春浅い公園                    

最近の国会中継は、映画やドラマよりも面白い、と言ったら叱られるだろうか。

面白いと言っているのは、その場のやり取りは、当たり前といえば当たり前であるが、全てコトバを介して行われていることです。

このコトバは、唯一無二の人間だけに与えられた意思伝達の手段・技術であることは言うまでもありません。

勿論、手話やパントマイムによっても意思伝達は可能ですが、この場は、日頃のビジネスシーンを念頭に置きますから、コトバについて、「その力と無力さ」について触れることにします。

国会などのやり取りを聞いていると、果たして、相手(聞き手側)の理解を得ようとしているかどうか疑りたくなるような、分かりずらい、意味不明のコトバの羅列の様な答弁のものから、流暢とは言えないが、言わんとすることが自ずと伝わってくる答弁もあります。

 話し手から放たれた一定の意味や意図を込めたコトバも、話し手の口から放たれて、聞き手の耳から脳に入ったところで、初め解釈されて相手の言わんとす意図や意味を知ることになります。

これは国会等の場だけでなく、家庭内や会社、友達関係においても、およそコミュニケーションを要する場において、あてはまる”公式”です。

 ここで、問題になるのが、コトバは万能ではなく、単語一つの意味においても、コトバの受け手によってその解釈を巡り、違いが出ることを知り置く必要があると思います。

「そんなつもりで言っていない」、「そんな風に受け取っていたのか」、「分かってもらえると思ったのに全然違うことを・・・」etcは日常的によくあることです。

つまり発信者の意図とは、関係なくコトバの意味合いは、「受け手の解釈が優先」するという事実です。

例えば、「りんご」と言う言葉を発した時に、聞き手の頭の中で浮かんだものが「みかん」であった場合はもうその場のコミュニケーションは成立しません。

これは極端な例ですが、実際のコミュニケーションではよくある話なのです。

話し手は、自分の言葉に込めた意味を確信していますが、受け手の方は、果たして発信者の意図する意味通に受け取ったかはどうかは、不明確と言わざるを得ません。

自分のコトバに自信がある人ほどは、その豊富な語彙を駆使して、言葉の力ので相手をねじ伏せようとしますが、いかんせん、相手(聞き手側)が完全に理解することを求めるのは不可能でしょう。

相手には、語彙力の問題、理解力の問題、知りたくないことは知ろうとしない脳の働き、相手に対する印象の問題、端から聞く気がないときなど、発信者は、多くを期待できません。

私は、これらのことを社員研修などで身をもって経験しましたが、いくら、事例を挙げ、条理を尽くして説明しても、伝わらないときは伝わりません。

(私のコミニュケーション能力の問題もありますが・・・・・。)

 

何故か、それは、私の言い放った「言葉の意味」は「相手の頭の中にある」からに他ならないからです。

相手が、「りんご」を「みかん」と思っている人に「りんご」をテーマにしたコミュニケーションはもう成立しません。

だからと言って、「どうせ半分も伝わらない」からではなく、「何とか半分だけでも伝わるように」と心掛けることが重要です。

今話していることは、どれだけ、相手に伝わっているか、つまり相手の「理解度」を確認しながらコミュニケーションすることは重要なポイントと思います。

 

ついでですが、籠池さん関連の国会のやり取りで気になることがありました。

昭恵さん付きの谷さんという秘書のファクスが開示され、その中の一文に、「本件、昭恵夫人にも【報告】済みです。」という箇所がありましたが、この「報告」というコトバの使い方と意味合いは、国も民間も意味合いは一つです。

上司の「指示」に対して、その指示にもとづき如何に取り計らったか、その内容や結果を上げることを「報告」と言います。

谷さんが、昭恵さん(上司)の指示も待たずに、一人称で(自分勝手に)能動的に籠池さん側の要請を関連部局へ照会し、その結果を事後、昭恵さんに上げるということは有ったとしてもそれを「報告」とは言いません。

何故かと言うと、その場合は、「事後報告」ということになり、単に「報告」というコトバは使えません。

 

時季的に、各企業は「新入社員研修」がたけなわですが、〈指示と報告〉は対であると教えなければならないと思います。

だから、回覧文書の添え文に、”以下のおり、社長から「報告」がありました””など書くのは大きな誤りです。

(実際に、かってある企業の総務部門でたまたま見かけた回覧文書に、”社長から別添のとおり報告かあリましたので・・・・”を見てびっくりしたことがありました。)

「報告」は、自分よりも上位職者に対するもので、その部下は「上司から報告があった」などとは社内で使ってはならないのです。

野党も、与党が「昭恵さんは関与していない」と言っても、ここに「昭恵さんに報告」とあるじゃないですか、指示がないのに報告はないでしょうと、何で追求しなかったのか。

やっぱり「指示と報告」はセットということを、若い時に教わっていない方が国会にも多いのかなと思いました。

 

会社とは何か?「計画はリアル計画で」

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年が明け職場に戻って来ると、第4/四半期が自動的に始まっており、気になるのが「年度事業計画」の着地(決算数値)です。

前年の月次経理等で「月別の進捗状況」が順調に推移して来ていれば別ですが、未達成の管理項目がいくつかある、あるいはその殆どが未達成の状態であるとすると、正月気分もどこへやら、焦りの気持ちになって交感神経が一気に高まります。

年度事業計画の策定や月次経理については、各企業によって色々な方法、やり方がありますから、ここでお話しすることは控えますが、今日は会社から日常プライベートまでよく使われる「計画」というコトバの持つ意味などについて改めて考えてみたいと思います。

考えてみれば、物心ついた時からこの方、事あるごとに使い、お世話になって来たごく当たり前に使っている欠くことの出来ないコトバです。

ある意味サラリーマンは、この「計画」に縛られ、逃げられないのですが、ときには憂鬱の種であっても、「計画」無くしては、何事もなし得ないこともまた確かでしょう。

とは言え、実際、世の中には「計画倒れ」というコトバあがって、要は「ごちゃごちゃ」下手な考えに埋没していないで、即行動に移しなさい!兎に角、「実行」です。という教えもあることも確かです。

つまり、「考えるのは行動の後」、あるいは「行動しながら考える」となるのですが、それも局面、場面によっては勿論有効ですが、私は、まず「計画する」を〈意識してワンステップ〉踏むことをお奨めしています。

(余談ですが、アメリカの37代ニクソン大統領は、「3分間のスピーチにも原稿を作り入念に準備した」との彼の記述を見て、大統領としての功罪はともかく、感銘しました。)

また、「計画」という概念の解釈や受け止め方ですが、これを「予定」とほぼ同じ解釈で使っている方もおられます。

これだと、計画が本来持っている”機能”が果たせません。計画と一言に言っても、使い方のよっては中身は濃いものになります。

計画の中には先ず、これからやろうとすることの「準備」があり、色々な手立て「手段」や具体的な「方法」などが含まれているという解釈です。ですからこれを有効に使わないという手はありません。

計画を単に「予定」的な意味合いでいると、事前の段取りや方法が後手になったり、思わぬ制約条件(障害)にぶち当たって頓挫ということにも招きかねないのです。

私のセミナーでは、計画は「決定」と言います。敢えて言えば、「決定事項の仕様書」という解釈も成り立つと思います。

当然、計画の中には「タイムライン」がありますし、そこにHow や Whoなど必要事項が、ぶら下がっているというイメージを持つと分かり易いかもしれませんね。

少なくとも、計画とは『やるべきことを〈決めたもの〉』です。

決めないことには、前に進めませんから、例えば、「明日の休日は家にいるのか」、「買い物に行くのか」を決めなければ、行動に反映されないという考え方です。

従って、予定も計画も「決定」に非ずと踏むのは「やる気あるの?」と言われても仕方がありません。

いづれにしても、公私の別なく物事の遂行にあたっては、まず計画(やることを決める)したほうが良さそうですが、単にやりたいことを羅列したり、〈予定的な計画〉では、ここで言う計画の効力は望めません。

つまり、「計画はあくまでも計画」や、「計画は決定ではない」という解釈が何処かにあると「リアル計画」の効力は望めないのです。

計画(Plan)は、あくまでも「なすべきことの決定項目」であり、実施(DO)の明細仕様書とも言うべきものと考えては如何でしょうか。

 

 

 

 

 

会社とは何か?「不思議な〈責任の所在〉」

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少し話が古くなりますが、小池都政が誕生して4ヶ月が過ぎようとしています。

小池都知事が直面している問題の一つ豊洲移転問題は、混沌とした状態が続いておりましたが、ようやく移転時期を含めその方向性に一定の見解が示されました。

今日は、これまでの一連の報道の中で、”ある”と思われていた「盛土」が”無く、地下空間なっていた責任問題に鑑み、今一度、組織の責任、権限について触れてみたいと思います。

誰のいつどのような判断がなされた結果によるものか?などの責任問題については、最近、8人の都庁幹部の方々の関わりがありとの報道がありました。

報道で明らかになるまでにかなりの時間がかかりました。世界に誇る先進近代都市である大東京〈司令塔〉の組織にあって、あの大事業の責任者が誰であるのかが、よくよく調べないと分からないし、当初、明らかに当事者?と思われる方までが、「さあ~??」と言うのは、誰もが不思議に思ったに違いありません。

組織の大小にかかわらず、組織を創って仕事をするということは、個々で仕事をするよりも効率よくうまく仕事がやれるからであり、何よりも責任の所在を明確にできるということです。

また、組織を作る目的を物語的に言えば、(以前のシリーズで、屋台のラーメン屋さんに例えて少し触れました)トップが独りでやっていた仕事を〈業容の拡大〉とともに人を雇い、自分の仕事を人に割り当てることが組織の始まりです。

これが「分業・分担」であり、取りも直さず「分権」にも通じます。

都庁というあれだけの組織を〈知事が独りでやりきれるものではなく〉、当然、組織化され、都庁が出来上がっていると考えます。

与えられた仕事をやるには、一定の職能と権限が必要になりますが、それは、トップからの分権によって各部署に降ろされて来ていると考えるのが分かり易いと思います。

つまり、組織各部署が仕事をやる上での権限は、元々トップが全権を保有していたものを、順次、下位への分権や権限委譲がなされたものであり、それにより、自ずとヒエラルキー的に体系化され組織が出来上ったと考えられます。(組織の権限論は、一部学者によっては若干諸説があります)

であれば、前出の豊洲市場の責任の所在は、誰が、下した判断(決裁)であるかは明白である筈です。

しかし、当初から誰の判断か不明であるかの様な報道がなされていましたが、そんなことはなく,新しい理事者(小池都知事)の追求に組織がお互いに〈かばい合ったか〉、〈隠蔽しようと口裏を合わせたか〉〈いつかは、白日に晒されることは分かっても時間稼ぎで抵抗したか〉しか考えられません。

どのような組織にも、各部署の業務の受け持ち範囲(分掌)、権限(責任)規定の類は、しっかり文書化され整備されているはずなのです。

でなければ、業務の受け持ち範囲も分からず、当然責任の所在も不明です。混乱して業務の遂行は困難なものになりますので、いくら何でも、そんなことはあり得無いことでしょう。

以前のシリーズでも触れましたが、権限と責任はクルマの両輪です。権限の行使は責任が伴うのです。よく愚痴った時に「この仕事を自分はやているけど何の権限もない」と言うのは間違いです。どんな仕事でも、その仕事を任されている以上そこには「権限」があり「責任」があるのです。

ですから、「仕事=責任」と考えても良いのです。新入社員研修のときには、大事なこととして、よく取り上げ理解してもらいます。

そして、どの様な組織でもトップが自分ではなく、下位職者(自分の部下)が、しでかしたこと、判断したことだからと、責任逃れすることは、許されません。

権限を下位へ下ろした、委譲したと言っても「根っこ」は自分です。下ろした権限が正しく適正に行使されているか等、上司として管理・監督・指導するという責任(仕事)は留保されていると云うことをトップは忘れてならないことです。

ましてや、当時の都知事さんは、この問題について問われると「記憶にない」と回答されているやの報道がありますが、自分の記憶が「ある」「なし」にかかわらずそのポストにいたということで、責任を負うことになると思います。

トップや上司の責任とはそう云うもので、例え、自分の知らないところで起こった問題であっても、「記憶にない」や「存じません」は通りません。一部の方が言われているようにガバナンスの問題ということにも一脈通じます。

ご本人の回答はどうあれ、当時の知事さんには、逃れられない重大な責任はあると思うのは、私だけでは無いと思います。

 

 

 

 

会社とは何か?「仕事の守備エリアはどこまでか」

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誰でも、職場で自分の坦務を持っています。会社から命じられた一定の「守備エリア」があって、それを毎日忠実にこなして行かなければなりません。

賃金は、本人の資格等級やその遂行度、貢献度などが加味され自社の給与規定によって、支払われています。

しかし、支払い給与と自己の仕事の範囲は明確にリンクしているかというと、必ずしもそうとは思えませんね。

「えっ!それって私の仕事!?(仕事の押し付け)」と思う時と、「えっ!それは私の仕事ですけど!?(越権行為的、領海侵犯)」と思う時などはある筈です。

 

このような現象は、その時々の周辺事情により発生してきますから「何が良い悪い」ということではなく、このような場面では職場の円滑な人間関係をも考慮しつつ、ある程度は許容せざるを得ないのが現状でしょう。

問題は仕事と仕事の間の部分です。普段はあまり考えられていない、気づいていない部分ですが、どの様な職場にも大なり小なり存在しています。

何故そうかというと、考えられることは「仕事」は、「能力」と同様に給与を決める重要な要素の一つでもありますから、一般的には職務調査などにより、自社にどの様な仕事があって、またその仕事は、どの様な「職能要件」によって行われるべきかなどを決めています。

つまり、今の「仕事」は今決められたのではなく、過去のある時点で決められとことに基づいいます。

ですから、一つは、当然かなりのタイムラグが生じていますから、過去の決められた時点と現在とでは、そぐわなくなってきているという事も考えられます。

 

また、会社の「職務分担表」などは、「主要業務」しか列挙されていませんから元々、全ての業務を網羅しているわけではありませんから当然といえば当然なことかもしませんね。

このようなケースは、部門対部門、課対課、係対係、担当者対担当者、間で現実に発生していますが、問題はその時々においては、どのようなスタンスで対応すべきでしょうか?

先述のように、職場の人間関係云々だけでは片付けられない場面もあるでしょうが、二つの選択肢が考えられます。

一つは、頑として自分の守備エリアに固執して、「狭間の仕事」を拒否する。

もう一つは、苦しくても応諾してマイジョブ(あるいは課業として)として遂行する。

です。

私は、「マイジョブとしてやる。」という方を推奨します。理由は、自己の守備エリアが拡大するからです。これを嫌だという人も結構いらっしゃると思います、それはそれでよろしいかと思います。(もともと良い悪いの話ではありませんから)

受け持ち範囲が狭い方が、仕事的に楽だからという考えだと、仕事とともに成長する可能性も低くなりますし、仕事には一定の権限もついてくることもあります。

将来の展望を持って自己研鑚を積んでゆく覚悟であれば、「これは私の仕事ではない」と言う前に少したちどまって考えてみることも重要です。

会社の仕事は少ない範囲をキッチリやっているよりは、特に若い伸び盛りの中堅社員さんは、貪欲に狭間の仕事から、一歩踏み込んでエリア外へ進出というのもこれからは全然ありだと思います。

かって、私も、組織のNO2であったときに、トップの仕事に少しずつ切込み、(侵食といったほうが適切)かなりの仕事(=権限)掌中にしたことがあります。

やり方は、簡単です。不在時などにトップに代わって(事後承認)を前提に代理決済や小さな指示をやるというものです。

そのうちに、その一定の範囲を飛び越えて、「越権」してゆきますが、(注意されたら謝って止めればよい)されなければ、そのまま、踏み込んだところまでが、「私の陣地」になるという訳です。

これは、極端な例と思われるかも知れませんが、そうでもないと思います。

 

特に、上位職位への任用を控えてる方々は、自分の「上司の仕事を取る」くらいが丁度よいでしょう。

主任であれば、係長の、係長であれば課長の仕事を奪ってやるくらいの勢いがなくては、上司や人事サイドは太鼓判を押してはくれないでしょう。

給与もそうです。ご承知のように、一頃、万能であった「職能資格制度」の神話は崩れつつあります。職能資格は無くならないにしても、上げた業績を評価に織り込む併用型の給与制度にシフトしている企業が多いようです。

つまり、これからは、同じ職能資格であっても、その携わる職務の「種類、質、量」などに着目して処遇が決定されると言って良いでしょう。

 

どうぞ、守備範囲に固執しないで、狭間の仕事は勿論、やり方はともかく貪欲に仕事に切り込んで行くことをお奨めします。それは、容易でないにしろ、異なる角度の視点で今の仕事を眺めることにもなって、新たな発見や見直しにつながることが往々にしてあります。

仕事は楽な仕事を「よし」とするのではなく、自分のキャパシティーより少しオーバー目位の負荷が丁度よいでしょう。

今まで無理と思った仕事でさえ、いつの間にかやっている自分に気付かれて、開拓されたあなたの能力にあなた自身が改めて驚かれされることでしょう。

 

会社とは何か?「自己評価&他者評価」

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先日、あたら知事の座を”自らの不徳とやら"で棒に振った方がいました。政治家の方は立候補して選ばれる訳ですから、自分自身に確固たる信念や自信がなくては務まらないというのは誰しも分かります。しかし、自信過剰はどうでしょうか。Mさんがそうであったかは分かりませんが、一連の報道を見る限り、どの様な指摘や疑惑に対しても、その自信に満ちた強気な受け応えには、謙虚さや誠実さは感じられず、マスコミやその向こうにいる一般大衆に、「我何ら臆することはない」という尊大な印象すら与えてしまったように思えます。

ビジネスの社会でも同じようなことが言えます。自信を持つことは悪いことではありませんが、自信過剰は命取りになることもあります。

会社での評価とは、自分以外の第三者がするものですが、自己評価と他者評価が一致する場合は問題ありませんが、ギャップがある場合は往々にして自己評価が高い場合です。

誰でも、自分のことを”可愛くない”人はいませんから、上司の評価が思っていたよリ低いとがっかりします。なかなか受け入れられないのです。

今は、被評価者に対し、評価の根拠を明らかにしている会社も多くありますので、社員は自分の評価根拠を上司をから知ることはできます。

それを聞いて、「なるほどそうか」と思えるか、「そんなバカな」と思うかです。

 

「人の目から見たもの」と、「自分の自分への評価」と違っていてもそんなに不思議ではないでしょう。

Mさんのように優秀な国際政治学者でも、ここは政治資金を使っていい場面かどうか分かったはずですが、自分のことが自分で見えていないから、(恥ずかしいことをしている自分が見えていないから)不適切な処置をしたと考えられます。自己には甘かったと言うしか無いと思います。

以前のセミナーでも少し触れましたが、「自己を客観的に見れるか?」はいかなる時でも重要です。

つまり、自分の組織での言行は、どう回りに映っているかは、気にかけておく必要があります。

会社の成績に反映される「評価」は当該社員の『職務行動』にフォーカスされるものですから注意は行きますが、意外に見落とされるのは、アンオフィシャルな評価でしょう。

つまり、広い意味での「評価」は上司から受けるものだけでなく、部下、同僚、受付さん、守衛さん、掃除のおばさん、社員食堂の賄いのおばさん、部署によっては、取引先、お客様等々を含めて、こちらの意向に関係なく、しっかり見られている(評価されている)と見るべきです。

自分の上司以外はいわゆる職務行動を見ているわけでは無く、またその権限もありません。だからかと言って油断をして緩む時が、大きな失態をするチャンス?なのです。

これ位はいいだろう的なちょっとしたルール、マナー違反、ぞんざいな態度・コトバ、それが、良からぬ評判や風評となって上司や会社の上層部にまで届いてしまうことはよくあることです。

私自身が組織で人事部門の責任者だった頃、トップに呼ばれて部屋に行くと、昇任候補の一人だったA君について「A君は、掃除のおばさんや守衛さんに評判が悪いのは何故か?」と尋ねられました。A君は一流大学を卒業し、業務成績優秀で同期の中でもトップを行く人物で、いち早く課長昇任のリストに乗っていました。

しかし、調査の結果、直接業務に関係ないとはいえ、社業を下支えしている「おばさん、おじさん」に対する言動に問題ありと認められ、見えないところで素行の悪さ、裏表の有る利己的な人物という見方(評価)を下されてしまったのです。結果、課長昇任は見送られてしまいました。

A君は、会社にいる”おばさん”や”おじさん”などは、自分の評価には関係ないと思のったのかどうか分かりませんが、自己の利害関係のある・なしで態度、コトバが変わるような浅い”人間としての品性に問題ありで、”再教育の判を押されてしました。

部下を従えて仕事をする立場になると、仕事のマネジメントだけでなく、人を動かして業務を遂行することになります。課長職だけでなく、主任、係長、グループ・リーダー等のマネージャーさん達は、仕事ができて当たり前ですが、問われるのは、もう一方の”その人となり”や”人間性”です。

人間性の解釈や定義は、それぞれにおまかせ致しますが、部下を持ったら先ず「滅私」です。利己を捨て、他利を優先した上司でなければ部下は心から従わないでしょう。

また、自分の口から自分を飾るコトバも、周囲に、必要以上に自己愛の強い人とみなされますから謹んだほうが良いと思います。

かって、英語に堪能な上司に使えましたが、T大卒だからそんなんものか、位に考えていて、(本人からそれらしきことは一度も聞いたのではなく)、後で分かったことですが、本社時代の若き頃、成績優秀につき、マサチューセッツ工科大に派遣留学で学位ありと言うことが分かました。

私は、一緒にいた頃は、そんな経歴とはつゆ知らず「英会話がうまくなるコツを教えてください!」などと言ったことを思い出して赤面した次第です。

本当に出来る人とは、自らを語らずとも、自ずと周囲が認め評価するものなのだと思った瞬間でもありました。